在宅介護16年の闘い。

要介護4の父をリアル在宅介護してきた約16年を振り返る日常

【施設から持って帰る洗濯物が山盛りに増えた!】

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皆さん、こんにちは。^^

昨日は日曜だったので、朝の9時頃から父の老健に行ってきました。

日曜朝のこのルーティーンもすっかり慣れてきました、でもこの朝の作業があるので朝から出かけたり、山登りにも行けなくなりました。仕方無いです・・。

入口で記帳して、マスクと手洗いうがいをチェックして。

日曜の朝9時から面会に来る人は、ほとんど居ませんね。

以前は9時20分ぐらいに来てたんですが、オムツ交換と重なる事が多いので早目に変更しました。

記帳の用紙に、リハビリの先生からのお話があるとメモがありました。

日曜はリハビリの先生は居ないので、改めて平日に話を聞きにきます。おそらく定期的にあるリハビリのプランの説明だと思います。うちの父の状況でちゃんとリハビリしてくれるのは、ありがたいです。

今日は父の機嫌も良く、サクサクと作業が進みました。

車椅子のクッションに巻いてあるバスタオルを交換して(これがいつも汚れてる。。)、爪は施設の方が綺麗に切ってくれてました、電気シェーバーを渡して自分で剃ってもらい、熱いお湯でタオルを絞って顔を首回りを拭いて、皮膚科の薬を塗って、ベット周りや床を簡単に掃除して終了です。

持って来た着替えを補充しようと引き出しを開けたらスウェットのズボンが残り1本になってました!?毎回多目にと7~8本(1週間分!)は入れてるんですけどね・・。

「これは大量洗濯の予感!?」

帰る間際に一番上の階の洗濯物置き場に取りに行くんですけど、予想通り父用の洗濯物カゴが溢れそうになってました。。

ズボン6本、トレーナー2枚、ポロシャツ1枚、下着Tシャツ2枚、靴下2セット

濡れてるズボンが3本あったので、トイレに失敗したみたいです。

洗濯が少ない時はズボンも2~3本しかないので。

あと前に書いた記事の皮膚科の軟膏の件で、着替えはマメにしてくれてるようです。

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帰ってすぐに大洗濯をしたんですが、午後から曇ってきてカラッとは乾きそうにないですね。特にスウェットのズボンって、この時期乾きにくいんですよね。

念の為の対策として、来週はもっと予備に置いておく服の数を増やす事にしました。

在宅介護が長かったので、あまり着てくれなかったような2軍の服もたくさんあるので、引っ張り出して持っていきます。傷んでたり多少色が褪せたりしてますが・・数がいるのでそこは我慢してもらいます。たぶん一番汚れて交換頻度が高いのはズボン特に多目に。入所してからは、うちに居た頃と違い文句を言ったりわがままを言わなくなったので助かります。

1週間に1回しか洗濯物を取りに行かないので、やっぱり汚れや臭いが落ちにくい気がします。以前の記事に書いたように洗剤とか漂白剤も工夫して使ってるんですけどね。

汚れや臭いが頑固になってしまってるというか・・クリーニング屋だから余計に気になるのか。気にし過ぎなのか。

 

【まぁ今日は父の機嫌が良かったから良しとします。】

 

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【国民年金が全額免除になった話。】

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皆さん、こんにちは。^^

 「自分は国民年金が全額免除になっています。」

 

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なんで??当然ライフハックや裏技なんかありません。

ただ単に、自分(世帯)の前年度の所得が基準額より低いからと言う事なんです。

20代後半までは歯科技工士として働いていたので、厚生年金を払ってました。

その後、家業を継いでしばらくは個人としての収入が少なかったので、国民年金を払う余裕がなく、

 【国民年金は未納状態】でした。

それから数年間は督促状が来ても収める余裕がなかったので、スルーしてたました。

うちでお願いしてる税理士さんが変わった時に年金の話しをした所、ちゃんと申請すれば、【年金免除や猶予の制度】があると言われました。

すぐに、役所の年金窓口に行き申請をしました。

  • 保険料の納付期限から2年を経過していない期間(申請時点から2年1ヵ月前までの期間)について、さかのぼって免除されます。

その年の分と2年前までの分、合計3年分の書類を書いて申請しました。

しばらくしてハガキで国民年金全額免除”3年分の通知が届きました、もっと早くに申請しておけばよかったと後悔してます。 

2年よりの前の分はどうにもなりません、2年より前の分もちゃんと免除申請等しておけば、将来貰えるはずであった金額を貰えなくなったということです。

 ◎国民年金免除割合は4段階です◎
  • 全額免除  将来貰える年金額は1/2
  • 4分の1納付     〃    5/8
  • 2分の1納付     〃    6/8
  • 4分の3納付     〃    7/8

当然、満額納めてる人よりは支給額が少なくなりますが、全額免除の場合は実質年金を払っていないのに、年金を貰えるという事になります。それ以外の割合の免除の場合も、支払った額以上の金額が将来もらえるという事になってます。 

前年度の世帯収入が一定額以下、失業(離職票が必要)などの場合は納付猶予の措置も受けれるそうです。 

学生さんや、若い世代の人で払ってない人は結構多いように思います。(個人的にですが) 

  • 単純に払いたくても払えない。

  • 年金なんて払っても、どうせ将来貰われへんやろ?

  • 手続きとか、なんか面倒くさい。

  • そもそも年金免除・猶予の存在を知らなかった。

【それ、ほんまにもったいないですよ!】

払えるのに払わないんじゃなくて、払えないんですから。

  • 年金未納の場合 ➡ 今支払わない ➡ 将来貰えない
  • 年金免除の場合 ➡ 今支払わない ➡ 将来二分の一貰える(全額免除時

年金事務所に行くよう勧められましたが、自分は役所の年金窓口に行きました。

待ち時間は少しありましたが手続き自体は簡単ですぐ終わりましたし、丁寧に説明もしてくれました。個人的にですけど、ここ数年は役所に行くことも多かったんですが、以前に比べて役所の人の対応がすごく良くなってるような気がします。”お役所仕事・役所の人は不愛想”そんな先入観はもう古い考えかもですね。

毎年7月に更新で、前年度の確定申告の所得額で免除申請して審査されます。

審査結果はハガキで届きます。

 

 ◎申請時に必要な物

  • 申請書
  • 本人確認書類(運転免許証等)
  • 年金手帳 または基礎年金番号通知書
 
申請書は役所の窓口で貰えますし、日本年金機構のHPでもダウンロードできます。
HPにはその他説明もありますし、YouTubeでの解説動画もあります。

【年金免除の情報は、検索すれば山ほどでてきますし、YouTubeで年金免除関連の動画もいろいろな方がUPされてて参考になります。】

それぞれの状況により、免除されるかどうか、免除割合は解りません、一般的な所得がある方は免除されない場合の方が多いと思います。

【学生、自営業で前年度低所得の方、失業や退職した方は免除の可能性があると思います】

まずは役所に電話して相談するぐらいはしても良いと思います。

ほっておいたら督促状はずっと届きますし、国民年金未納”と言う状態が続く事になりますから。 

 年金の受給資格も以前の25年間から10年間に変わりました。これは国民年金だけでなく、厚生年金を払っていた期間も含みます。

なので自分も厚生年金と国民年金免除期間分を含めて10年は超えてるので、支給対象ではあります。現時点での事で、これから先制度や法律が変わったりで今後どうなるかは解りません。

去年来た”年金定期便”にはその時点での支給額が書いてありましたが、たしか月額で1万ちょっとやったと思います。

「え!?貰える年金がたったの月額¥10000??」

その時点での額の話なので、これから免除が続けばその分も加算されますし、収入が増えて満額の国民年金を納めればもう少し増えるでしょうね。いくら増えたからと言って、今のじいちゃんばあちゃん達がよく口にする「年金暮らし。」そんな年金天国は100%やって来そうにありません。支給年齢もどこまで引き上げれらるか解りませんし。

自分は死ぬまで働かなアカン説がますます有力ですが、年金で光熱費が払えればぐらいで良いわ程度と思ってます。

”年金は”もう破綻してる”と聞く事もありますし年金が破綻するなら日本が破綻する”とも聞きます。ただ年金だけを頼りにできる時代でない事は確かだと思います、自己で出来る老後の対策はきちんとしておかないと、誰も助けてくれません。

きちんと免除申請をしていれば、少なくとも支給額がゼロではなくなるので、手間と思わず免除申請等をお勧めします!
  • 私的な見解も入ってますが、今回の情報が少しでもお役に立てればと思います。

 

 ※日本年金機構国民年金保険料に関する手続き」 
  http://www.nenkin.go.jp/shinsei/kokunen.html

 

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【親孝行したい時に親はなし。】

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「親孝行したいときには親はなし。」

なんとなく、一度ぐらいは聞いた事ありますよね?

”親が元気なうちは、親の苦労や有り難味になかなか気付きにくく、それに気付く頃には親はもうこの世から居なくなってしまってる。親が生きて元気なうちに孝行をしておけば良かった、と悔やむ事です。 ”

このブログのタイトルにあるように、自分は約16年間在宅で父を介護してきました。

凄いやろ?親孝行やろ?なんて事は思った事は一度もありません。

  • 正直な気持ち、出来る事なら自分だって親の介護はしたくなかった。

  • 誰か他にやってくれるなら、その方が良いと思ってた。

  • でも姉も、父の姉弟も、親戚も誰も何もしてくれなかった。

  • だから母と2人で父の介護を続けるしかなかった、ただそれだけです。

16年て赤ちゃんが高校生になるぐらいの年月ですよね?

もっともっと長く在宅介護されてて大変な方も居られると思いますが、気付けば自分達には長過ぎる年月でした。

介護の始まった最初の数年間は毎日が壮絶な地獄でした。

それがだんだんと、ただの地獄になっていったのは、

【介護への慣れ、感情の麻痺、人生の諦め。】です。

父に早く亡くなって欲しい、父の事を・・してしまいたい。そんな事考えたのは、この16年間で何十回思った事か解りません。とにかく介護から解放されたい、心も身体も開放されたかった。ただ静かに暮らしたかった。

親を捨てて家を出る事もできたと思います、でもそれは出来ませんでした。

ようするに逃げる根性なかったんですね。

当時から父の介護の事は周りの友人達にも、なんとなくぐらいしか伝えてませんでした。話たところで解ってもらえないやろうし、その介護の説明をするのがしんどかったので。

昨年、ようやく施設に入り長く辛かった介護もひと段落しました。

たしかに日々の生活は劇的に楽になりました。精神的、肉体的、経済的に。

でも、まだ介護は続いてるんですね、

 ”施設に入所したらハイそれで終わり”じゃないので。

年に数回、父の顔を見にくる親戚の叔父さんがいました。

父が入所してすぐに来たので入所した事を説明したら、あからさまに怪訝な顔をして、

「え、施設に入れたん!?」

と言われて、何も言えませんでした。まるで父を無理やり施設にほりこんだみたいな言い方で。年に数回、コーヒー飲みながら30分ほど父の顔を見るだけと、1年365日父の世話を一から十まで面倒見る事の違い解らへんのですね。

施設の場所と部屋番号を教えて欲しいと言われて渡してますが、この半年は1度も記帳に名前がありません。そんなもんです。

「災害、病気、介護、このどれもが”実際に経験”せな解りません。」 

自分は人の親になった事ないので、人の親になる大変さや苦労は解りません。

でも子供として親に出来る事はやっておこうと、ようやく思える年齢になりました。

えらい時間がかかりましたが、

 

  これからが親孝行の始まりやと思います。

 

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【あれから25年】ようやく阪神淡路大震災を振り返れた。

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皆さん、こんにちは。^^

阪神淡路大震災から25年が経ちました。」

当時、まだ歯科技工士としてラボ(歯科技工所)に努めてました。

出勤前の早朝、夢か現実か解らないぐらいの揺れがきて、布団の中で全く動けませんでした。

「早く収まれ、早く収まれ。」と願うだけでした。

25インチのブラウン管テレビがバランスボールみたいに転がってたのを覚えてます。

揺れが収まり飛び起きて、下の部屋に行き父と母の安否確認をしまた。幸い上から落ちてきた物に当たったものの、大きな怪我等はなく無事でした。

父もまだ1回目の脳梗塞前で元気な頃だったので、2人で家と店の片づけをすぐに始めました。停電はしなかったので、TVから流れてくる衝撃的な映像を見て、ただただ驚いてました。

家屋の被害も大きく、屋根瓦はほぼ崩れて落ちてしまいました、瓦が天井を突き破って落ちた箇所もあって居間から少し空が見えてました。ブルーシートを張り、余震で被害が広がらないように、添え木をしたり、崩れそうな箇所は先に崩したり、素人で思いつく事はやりました。

ラボに電話し仕事を休む事を伝えて、とにかく家と店の復旧作業を数日間してました。

知り合いの業者さんにすぐに修理依頼をしましたが、当然いつになるかわからないとの事でした。いつ頃屋根が直ったのか?いつ補強工事が終わったのか?もう忘れてしまってます・・。

数日後に、ラボに出勤したら他のスタッフは皆通常通りに働いてました。皆、被害もなく無事だったようでした。

「え?そうなん?家潰れたん?」みたいな。

【災害にあった時の温度差って、何とも説明できませんよね。】

自分が住んでいる、大阪の北のエリアは震度5弱~6弱と報道されてました。

場所や地盤、建物の向きによってほんのちょっとの距離で被害の明暗が解れることもこの時に知りました。近所のうちも何件も家が束から外れて大きく傾いてました。

うちの家の束からは外れなかったものの、少し傾いてしまいましたが現在もそのまま住んでます。家屋・屋根の修理費用は当時で約300万ほどかかったそうで、家主と半分ずつ負担する事になりました。罹災証明も半壊でしかおりず、受けれた公的援助は微々たるものでした。

街の大きな公園、小さな空き地、いたる所にプレハブの仮設住宅が出来てました。何年間も仮設住宅はあったように思います。

当時自分はまだ若かったし経験不足や情報不足、行動力がなかったと思います。ネットもなかったですし、情報は限られてました。

 

父の介護が本格的に始まり、阪神大震災の事は振り返ったり思い出したりする事もほとんどなかったです。毎日の仕事、介護、家事で忙殺される日々で。

ようやく気持ちにゆとりができて、

「あれから、もう25年も経つんかぁ・・」と思い返せるように。

震災を経験した自分でさえ、少しずつ経験した記憶も薄れていってます。

震災を風化させない、語り継いでしっかりと記憶に繋ぐことは自分には出来ないかもしれない。

だから自分だけでも、

 

【あの時起きた事の経験・教訓を忘れないようにと思いました。】 

 

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【後編】人生最大のピンチを助けてくれた2人の恩人。

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皆さん、こんにちは。^^

昨日に引き続き、もう1人の恩人Yについて書きます。

~Y編~

Yとは高校からの友人で1度クラス一緒だっただけで、部活もサッカーとラグビーで別でした。それやのに生涯の友人になりました、喧嘩もしょっちゅうしてましたけど。

卒業後、専門学校に進学して大手?の測りメーカーに就職しました。就職してからは仕事、仕事、仕事でほとんど会う機会もなかったです。

当時ブラック企業なんと言葉なかったですが、まさにそうやったと思います。

毎晩夜中まで残業して会社に残って作業してました、「POSの設定が・・得意先の社長に頼まれた仕事が・・」とか。

しばらくしてYは横浜に転勤になり、3年ほどしてから大阪に戻ってきました。戻ってきたYは会社を辞めてKの兄と一緒に飲食店を立ち上げる事になりました。勤めていたのは有名な会社やったし、親には相当反対されたらしいです。

起業して数年後、Yは結婚して2人の男の子にも恵まれました。

自分が病気になった頃、Yは1つの大きな店舗をまかされつつ、各店舗の若い店長達のフォロー等で毎日夜中までずっと働いてました。

KとYと3人で集まるとなると真夜中2時、3時にファミレスにでちょっとお茶するぐらいがやっとこでした。無理が続いてるYは「体調がおかしい。」とよく言ってましたが、「そら働き過ぎやろー!」と冗談で言ってました。

Y「でも病院行ってる暇なんかないわ、せなアカンこと山ほどあるし。」

そんな毎日忙しくしてるYも仕事の合間を見ては、頻繁に病院に見舞いに来てくれて漫画を大量に持ってきてくれたり、当時のIpodに音楽満タンにして持ってきてくれたりしました。

【退院したらKとYには必ず恩返しせな。】

退院後すぐに、世話になった2人の手助けができるチャンスが来ました!とは言ってもこっちがまた助けられたような。。2人の会社の事務の人が辞めたから手伝って欲しいと声をかけてくれました。恩返しとまではいかなくても、まずは身体の自由が完全に戻ってない自分でもできる仕事を2人の会社で用意してくれました。簡単なPCでの入力作業や事務的な作業をバイトと言う形で手伝う事になりました。本業のクリーニングをするにはまだ筋力が足りないので、座ってやるPCの打ち込み作業ならなんとかできました。1日3時間程度でしたが、しばらく無収入だったので家計は助かりました。そうして日常生活のリハビリにもなりましたし。2人の会社でバイトさせてもらいながら、徐々に日常生活も復帰しつつクリーニング仕事も始め出す事ができました。

手伝い初めて1年ぐらいした頃・・

昼頃に店でアイロンしてると、Kが急に店にやって来ました。

だいたい来る時は連絡あるんですけど、その時はなかったです。。

K「aki落ち着いてよく聞け、何も言わんでええから。Yが今朝死んだ・・。」

この言葉、一言一句死ぬまで忘れません。

「うそやろ!」ではなかったです。泣くの我慢しながら話してるKを見てホンマやとすぐに解ってたので。

その日の朝、深夜の作業から家に戻ったYは1階で寝てる嫁と子供とは別に2回の寝室で寝てたそうです。朝になって嫁が起こしに行った時にはYはもう冷たくなってました。死因は心不全との事です。

「だから心不全て何やねん!もっとちゃんと解るように誰か説明しろや!」

過労、ストレス、病気、何が原因なんか・・解りません。

「何で死んだか解れへん。」なんやねんそれ。

「死ぬまで働く必要あったんやろか?」あるはずない。

自分も含め、何でもっとYの身体の事気遣わへんかったんやろ。

何を思っても、何を言っても全部今更論です。

お葬式の時、2人の子供にはパパが棺桶で寝てる意味が解ってませんでした。

享年37歳、若過ぎました。

何も恩返し出来ませんでした。

完全に元気になった姿を見せる事もできませんでした。

火葬された時、親御さんの許可を頂き遺骨を少しもらいました。今でも小さいケースに入れてきちんと保管してます。その行為が宗教的にどーとか、

「そんなん、どーでも良いんです。」

Yが死ぬ時に着てたNIKEのシャカシャカの上着を遺品整理の時に貰いました。亡くなった日、仕事から帰ってそのままのカッコで寝てたんですね。その上着を仕事中もフットサルの練習の時もいつも着てました。プリントも剥がれて、生地がボロボロになるまで。

Yは将来の夢をずっと教えてくれませんでした、「そのうち教えたるから、まーまっとけ。」と。

自分が親の介護も何もかも全部終わったら、小さいケースを持っていろんな山をYと一緒に登ろうと思ってます。

Yの夢が「山登りしたいねん。」やったらどんなに嬉しい事か。

まあ、それは自分が死んだらYに聞いてみたいと思います。

11年前に助けてくれた恩は、一生忘れません。

ありがとう。 

 

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